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お茶の歴史(起源・日本の歴史)

お茶関連

お茶とは、チャノキ(茶樹)から採取される葉や木を加工して作られる飲み物です。

また、これに加えて他の植物から葉や木、花びらなどを採取して作られた飲み物でもお茶と呼ばれますが、茶外茶として分類されています。

日本古来からある代表的な茶として緑茶があります。
他にお茶としては、ほうじ茶、紅茶、烏龍茶などが多くの人に知られていると思います。

現在においては、お茶を急須で入れる以外にもペットボトルやアルミ缶などに入ってるお茶が数多く売られています。

第一回目のテーマとしては、「お茶の歴史(起源・日本の歴史」について解説していきます。

お茶の起源

お茶の歴史は大変古く、起源には様々な諸説はありますが、中の一つに紀元前に中国の雲南省西南地域で初めて茶樹が発見されたという説が有力です。

当時の文献によると、帝「神農」が人の体に良い植物を見つけるために、数多くの試食をし、茶の葉を解毒に用いたと伝えられています。

また、主人と奴隷との間で交される契約文『僮約(どうやく)』の中に、「武陽で茶を買う」という記述があり、茶飲の習慣があり、売買が行われこの『僮約』が、現段階では茶具に関する最初のと言われています。

主に、上流階級に嗜好品として愛飲されるようになっていたと考えられており、紀元前から始まっている長い歴史があると考えられています。

 

日本の歴史

奈良・平安時代

日本に初めてお茶を伝えたのは、最澄、空海、永忠らの遣唐使だと考えられています。
『日本後記』には、815年に「嵯峨天皇に大僧都(だいそうず)永忠が近江の梵釈寺において茶を煎じて奉った」と事が記述が残されていて、日本における日本茶の喫茶に関する最初の記述された言われています。

当時のお茶は、大変貴重な飲み物で、僧侶や公家など限られた人しか飲むことが出来ませんでした。
しかし、894年に遣唐使が廃止された以降も天皇、貴族、高僧の間に定着していきました。

平安時代末期になると、茶栽培が日本で行われるようになり、京都栂尾の高山寺の茶園が日本最古で最初に栽培されるようになりました。

それから、伊賀(三重県)の八島、伊勢(三重県)の河尾、 駿河(静岡県)等の地域でも茶栽培が広まっていきました。

鎌倉時代

鎌倉時代初期、日本の臨済宗(禅宗の一派)の開祖の栄西(ようさい/えいさい、1141-1215)は、二度に渡る宋で禅宗を学び、禅院で飲茶が盛んに行われているのを見ました。
栄西は中国からお茶をお持ち帰り、帰国後は日本初の茶の専門書「喫茶養生記」を著し、お茶の効能及び製法について記述されました。

当時のお茶は、蒸し製の散茶で碾茶の原型とも言えます。
これを粉砕し、お湯を注ぎ、茶筅で泡立てて飲んでいたようです。

室町・戦国時代

戦国時代では多くの戦国武将が茶器を集めていたと言われており、織田信長も茶の湯に重んじていました。
よって、織田信長のように官職を賜りたい大名はまず織田信長と近付いて口添えをしてもらう目的で茶の湯をはじめたり、茶の湯はできないけど名器と言われた茶器を持つことで織田信長と関わるという事をしていました。

戦国時代においては、茶の湯をやっていること、茶器を所持していることは武家のステータスを意味しており、茶の湯を所持していなければ茶の湯をやっていることを証明できない。
つまり、茶湯をやっているなければ織田信長に認めてもらえませんでした。

織田信長に使えていた松永久秀は臣従する時には九十九髪茄子という茶器を献上しました。
しかし、織田信長は松永久秀が所有してた平蜘蛛の釜を欲していたと言われており、何度も所望していたが松永久秀は拒否しました。

松永久秀が謀反を企て籠城した際は、「平蜘蛛の釜差し出す」事を条件に無罪放免にすると伝えられましたが、それを拒否して平蜘蛛の釜に爆薬を詰め込んで自爆死したというエピソードが残されています。

安土桃山時代

安土桃山時代になると村田珠光、武野紹鷗、千利休などの茶人の活躍により、茶の湯が完成していきます。
千利休の茶の湯の重要な点は、名物を尊ぶ既成の価値観を否定したところにあり、一面では禁欲主義ともいえます。その代わりとして創作されたのが楽茶碗や万代屋釜に代表される利休道具であり、造形的には装飾性の否定を特徴としており、草庵茶室に象徴されています。

豊臣秀吉によって、京都北野天満宮境内にて北野大茶湯が大規模に際した行事があり、諸大名・公家や京都・大坂・堺の茶人などを招いて、京都の朝廷や民衆に自己の権威を示すために、聚楽第造営と併行して大規模な催事が行われています。

北野大茶湯では、学校の教科書でもお馴染みの黄金の茶室を持ち込んで、豊臣秀吉が所有する名茶器を自慢していたととも言われており、千利休・津田宗及・今井宗久といった安土桃山時代を代表する3人の茶人が招かれ、中でも千利休が茶頭役を務め活躍しました。

千利休は、織田有楽斎(織田信長の弟)らを弟子として育てていたと言われています。

江戸時代

江戸時代に入り、茶の湯は江戸幕府の儀礼に正式に取り入れられ、武家社会に欠かせないものとなりました。
一般庶民にも飲料としてのお茶が浸透していたことが当時の記録が残されていて、庶民に飲まれていたお茶は抹茶ではなく、簡単な製法で加工した茶葉を煎じた(煮だした)ものだったと言われています。

1738年、宇治田原郷の永谷宗円(ながたにそうえん)は、製茶方法を方法に改めて、優良な煎茶の製法を編み出し、煎茶(せんちゃ)の祖と呼ばれています。
煎茶とは緑茶すなわち不発酵茶の一種ですが、蒸熱により茶葉の酵素を失活させて製造する(蒸す)という点で世界的にも珍しい茶で、生産、消費ともほぼ日本に限られています。
製法は、「宇治製法」と呼ばれ、18世紀後半以降、全国の茶園に広がり、日本茶の主流となっていきました。

1835年には山本嘉兵衛(やまもとかへえ)により、玉露の製法が生み出されたといわれています。

お茶の近代化(明治時代~現代)

江戸時代が終わり明治時代へと移り変わり、近代化革命により西洋から多くの事を学び、様々な変革を遂げています。

明治初期、士族授産事業などを契機に牧の原台地などの平坦な土地に集団茶園が形成されるようになりました。
しかし、茶園開拓をした士族たちは次第に離散していき、かわりに農民が茶園を継承していくように変わっていきました。

お茶においても近代化が進み、高林謙三(たかばやしけんぞう)による茶葉揉葉機(ちゃばじゅうようき)の発明をはじめ、機械化が急速に進んでいき、生産性向上とともに品質の安定化に寄与されています。

他にも、1887年に紅茶が輸入されるようになり、ヨーロッパ文化への憧れとして日本に広まっていきます。
紅茶が、日本の茶の湯の伝統にも匹敵する舶来の文化として、上流社会でもてはやされていました。

1979年には伊藤園が中国の烏龍茶を日本人向けにアレンジして製品化し、烏龍茶の一大ブームを起こしました。
当時、緑茶飲料の開発を進めていた伊藤園は1980年に緑茶より先に烏龍茶の飲料化に成功し、「缶入り烏龍茶」の販売を始めます。
日本におけるお茶の飲料品として製品化されていきます。

そして、1985年には10年という長年の研究を経て緑茶の飲料化を成功させて、「缶入り煎茶」を発売しました。
今までは自宅や飲食店のような屋内でしか、お茶が飲むことが多かったお茶をいつ、どこでも、手軽に飲めるとして大きな影響をもたらしています。

1990年に大容量の、1996年に500mlサイズの小容量のペットボトル入り緑茶飲料が登場すると、緑茶飲料の主要容器は缶からペットボトルに移行していきました。
メリットとして、キャップができるというペットボトルの利便性により飲用シーンが広がったためと考えられます。

他にも爽健美茶十六茶などのようなノンカフェインのブレンド茶の登場や、特定保健用食品(トクホ) お茶飲料などが登場しています。

近年においては、農業生産技術が進歩を遂げて、センサーや機械のコンピュータ制御により茶園のIT化が進み、効率の良い大規模茶園の運営を少人数でも行えるようになりました。

 

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